子ども達
毎日の幼稚園への送り迎え、お迎え後に二人で遊びに行くことが日課になった。
仕事は会社のやり方、客の要望に応える、家事は家にいれば当然やらなければならないこと。これらに自発的に楽しむ要素はなかった。ただ、こなすだけ。毎日のタスク。
娘との平日のお遊びはタスクではなかった。連日残業で土日しか家に居ない、子どもと関わる事が無い期間の土日に遊ぶのは自分の中の罪滅ぼしでありタスクだった。同じ遊びでも天と地ほどの差がある。
そして、平日の遊びの積み重ねが心身に好影響を及ぼした。
自発的な行動がなかった。無意識に誰かの望む結果を得ようとしていた。それが普通になっていた。
自分の人生を生きている様でそうではなかった。
娘との遊びは自発的な自分を取り戻してくれた。好きだからしているし、相手も喜んでくれている。この感覚を長い間忘れていた。
なぜ働くのか、なぜ今の会社なのか、業務に忙殺されて、大事なものを忘れていた。目的をはき違えていた。
体の不調は深層心理に押しやられた本当の目的を呼び起こすために現れたのだと思う。
間違った方向へ進んでいたための一時停止なのだ。
子どもの成長は早い。心も体も大きくなる。日々できることが増えていく彼女達と共に過ごせる時間は短い。今しかない時間を失うところだった。
ワンオペ育児
妻にも大きな負担をかけた。私が家に居ないのだから当然だ。食事、風呂、歯磨き、トイレ、寝かしつけ、これらを子ども二人分、一人でしなければいけなかったのだから。
今、休職して半人前の専業主夫業をしていると、大変さが身に染みる。それこそタスクでありこなさなければならない仕事の面が多い。働きながらでは自分の時間などないし、気持ちが萎えること、ストレスでどうにかしてしまう理由もわかる。
家族のために長時間労働をしていたつもりが、家族に負担を強いていたことが、主夫業を通しても理解できた。
豊かな時間
働きづめだったときはお金があっても豊かさを感じることができなかった。というよりもストレス以外何も感じなかった。
何かに感動する時間がなかった。通勤中の電車で本を読む気力すらなかったのだから。
休職して時間ができたけれど、相変わらず気力はなかった。不調を抑えるために多くの時間を寝て過ごした。ただただつらかった。
休職後しばらく時間が経ち、娘と遊ぶようになった。失われた感覚を取り戻していった。少しづつではあるけれども、晴れやかな気分でいられる時間が増えていった。
お金があっても、時間があっても何かに感動できる心と体がなければそれを享受することはできないと身をもって知った。
健康があって豊かな時間を過ごすことができる。
人は幸せになるために生まれるのだとすれば、豊かな時間を過ごすことが幸せになる一歩だと思う。
日々のタスクで大切なことを埋めてしまわない様に。